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【うらおもて歴史街道 No.5】 隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン


1561年7月、豊後における医師としての仕事から手を引き、病弱な布教長トルレス神父の要請を受けて本格的な伝道活動に入ったアルメイダは、まず平戸と度島(たくしま)での布教に大きな成果をあげ、迎えの船に乗って、次なる目的地、生月島(いきつきしま)に向かった。

生月島は、ルイス・デ・アルメイダが今日に至るまで濃い影を落としている島である。

本稿冒頭で紹介したとおり、この島の某家では、昔から「アルメー様」と呼ばれる小さなチキリ(竿秤(さおばかり))が納戸神として大切に守られている。これは、1561年にアルメイダが生月島を訪れた際に、薬などを調合するのに用いた秤(はかり)とされているものだ。マラーノの伝統的職業とされていた医師の免許を下賜されていたアルメイダが、修道士として訪れた島で納戸神として祀られているというのは、歴史の不思議な巡り合わせである。

アルメイダが生月島に着いた時、この島の住人2,500人の内、800人がすでにキリシタンであったという。彼は当地の会堂で説教をして、島民に大きな感銘を与えた。

アルメイダは、1561年8月に生月島を再訪し島民に別れを告げたのだが、次のように書く彼は、その後にくるキリシタンの厳しくも長い「隠れ」の歴史をあたかも予見していたかのようだ。

「八百の霊魂がこの島にあって司祭も修道士も持ち得ず、また、彼らがそれに値せぬというわけでもないのに、近いうちに司祭を迎える望みもないのを見れば、確かに尊師らも大いに遺憾とするであろう。」

アルメイダは1569年2月23日に大村を発ち、崎津(さしのつ)を経て河内浦(かわちうら)に到着した。これが、現在の天草河内浦と崎津地方へのキリスト教およびヨーロッパ文化伝播の始まりになった。

天草の領主、河内浦城主 天草伊豆守鎮尚(しげひさ)は、すでにその6年前から領内へのパードレ派遣を要請していた。天草鎮尚は、天草氏菩提寺・信福寺にアルメイダを泊まらせた。

1569年2月、この奥座敷でアルメイダは、天草鎮尚と初めて会ったとされている。アルメイダは痩せ型で中背、頭髪も瞳孔も黒味がちの、皮膚もまた浅黒い、東洋人くさい風貌であった。しかも、ルイス・フロイスが言うように、「日本の習慣をよくわきまえており、(日本の)人々と談話していて、その心を掴むことに不思議な(ばかりの)才能を有していた」というアルメイダは、宗教や民族が異なる人々の社会に巧みに順応し、かつ相手の心をいちはやく掴むマラーノの驚くべき才能をここでも発揮したと考えられる。

たちまち400人ほどが洗礼を受けたというから、アルメイダの天草布教は上々の滑り出しだったと言えよう。

以来、天草氏領内のキリシタンは1万2千人にまで達し、35の教会が建てられ、河内浦と本渡(ほんど)に司祭館(レジデンシア)が設立された。

イエズス会士ルイス・フロイスの『日本史』によると、「(アルメイダ)師は、日本の習慣をよくわきまえており、(日本の)人々と談話していて、その心を掴むことに不思議な(ばかりの)才能を有していたから、キリシタンであると異教徒であるとを問わず、彼は日本の殿方にこの上もなく愛された。(…)彼は(…)年齢とともに病が重なっていき、近頃は天草に引き籠っていた。(…)(アルメイダ) 師の病気が悪化して、すでに死期が近づくと、(彼がいた)貧しい家はキリシタンたちで溢れた。人々は司祭の足に接吻するためにそこに来て、彼(の死)を惜しんで泣いた。(…)司祭たちは(アルメイダ)師の盛大な葬儀を営んだ。」

アルメイダの逝去の場所および墓地を立証する文献資料は存在しないという。天草氏の菩提寺・信福寺がアルメイダ終焉の地とされているらしい。

この後に来る、豊臣秀吉によるキリシタン禁教令(1587年)や、徳川幕府によるキリシタンに対する凄絶な弾圧の歴史はよく知られている通りである。

島原の乱(163738年)後も、崎津、大江地区に村の90%と言われる隠れキリシタンが残ったのは、1569年にアルメイダがこの地で布教の扉を開いた結果である。

文化年間に行われた島原藩による天草隠れキリシタン探索によって、(アルメイダの河内浦・崎津での布教から225年後の)1805年(文化2年)2月、大江・崎津・今富および高浜で5,000人にもおよぶ隠れキリシタンが露顕した。島原天草の乱においてキリシタンは根絶したと信じられていただけに、これほど多数のキリシタンが「隠れ」を続けていたということは、衝撃的であった。

銭や鏡、土人形や牛などの外見は世俗的に見えるものが、実はデウスやキリストとして天草隠れキリシタンの密かな信仰の対象とされていた。具体的な信仰の対象を求める隠れキリシタンが一文銭や仏像一面を聖母マリアに見立てて崇拝していたという、彼らの素朴な信仰心が見てとれる。

幕府は、このような「異物」を差し出し、キリシタン信仰を棄てた天草下島西南地区四村の者を寛大にも裁許するという異例の措置をとることによって、このキリシタン事件に一応の決着を着けた。

この地の隠れキリシタンの末裔が殉教よりも「転び」を選んだのは、あるいはそこにアルメイダのマラーノ的精神が流れていたからかもしれない。かつての邪宗門一揆などにも参加しなかった天草隠れキリシタンのこの地域こそ、隠れユダヤ教徒「マラーノ」の子孫ルイス・デ・アルメイダが布教した当の場所あるいはその周辺ではないか、と本書著者の小岸氏は推測する。

キリスト教布教史の中で輝くイエズス会士ルイス・デ・アルメイダは改宗ユダヤ人であり、隠れキリシタンの信仰の中に今日も生き続けているとは、何という歴史の因縁だろう。

そして、日本にやって来たマラーノ系のイエズス会士は、おそらくアルメイダだけではないのだろう。

『スペインを追われたユダヤ人』(小岸昭 著、人文書院、1992年)には「ユダヤ人の血を引くという、禁欲的・戦闘的なイグナチオ・デ・ロヨラ」という記述があり、断定形ではないもののイエズス会創立者のイグナチオ・デ・ロヨラがユダヤ系であったことが示唆されている

オーストリアの歴史家フリードリヒ・ヘーアは、その著書『神の最初の愛』の中で次のように書いている。「イグナチオ・デ・ロヨラは後年意識的に、イエズス会創立の地であるローマへスペイン系ユダヤ人を呼び寄せたのである。」「スペインで不純な血を引く全ての人々を一掃するための大いなる戦闘の火の手が上がっている間、イグナチオ・デ・ロヨラが秘書および腹心の部下として選んだのは、スペイン出身の改宗者ファン・アロンソ・デ・ポランコであり、さらに自分の後継者として選んだのは、改宗者ディエゴ・デ・ライネスであった。」

「こうした事実を証明するように、イグナチオ・デ・ロヨラの自叙伝『ある巡礼者の物語』第一一章「永遠の都での霊的活動」において、「スペインやパリやヴェネチアから追放された者たち」が登場し、当時ローマにたくさんいたユダヤ人を援助するための「要理研究のための施設」について言及されているのである。」(本書p. 46)

こうしたマラーノ系の人々が、イエズス会の「世俗化」に貢献したのだろうか。イエズス会とマラーノの関わりという興味深いテーマについては、さらなる研究が必要と思われる。

〇 「隠れ」信徒に見られる近代の合理的・世俗的な思考の鉱脈

本書著者の小岸氏は、次のようにマラーノと世俗的近代化の関連を指摘している。

「宗教的一元化の政策を敷いたカトリック王国で生き続けるためにユダヤ教徒が取った方法は、追放令下で密告者の目を恐れながら、策略を用いて人格を二重にし、現実的・潜在的な被抑圧者の生活を送るというものだった。その結果、スペインおよびポルトガルの隠れユダヤ教徒たちは、歳月の経過とともに、ラビ的ユダヤ教の正統から限りなく外れてゆき、両宗教混淆の独特な『隠れ』の宗教を発展させてきた。そこでは、カトリックと同時にユダヤ教の超越的な神あるいは唯一絶対神の概念は失われてゆき、『宗教的・儀礼的な事柄を含む現世とその実際的な問題』が一層重視されるようになっていった。マラーノのこのような信仰の歩みこそ、近代人が聖から解放され、非宗教的であることを志向してきた世俗的近代化に沿うものなのであった。」(本書p. 22)

「隠れ信徒は棄教と改宗に伴う罪悪感にさいなまれながら、死ではなく、時には死よりも辛い、生き続けることを選んできたのだった。それのみならず、彼らは体制の中に安住することなく、また超越的な神に救いを求めることなく、二重の宗教的帰属に生きる緊張した状況を逆に知的鍛錬の場へと転換していった。したがって、改宗と『隠れ』という、社会的には屈辱的に見える現象の中にこそ、近代の合理的・世俗的な思考の鉱脈が走っているように思われる。」(本書p. 30)

このマラーノと世俗的近代化というテーマについても、さらなる講究が必要だ。

〇 クリストヴァン・フェレイラ=沢野忠庵

なお本書では、ポルトガルから日本までやって来て二十年以上も布教活動を行いながら、逮捕され拷問にかけられるとあっさり棄教した日本キリスト教界の大物、クリストヴァン・フェレイラ(沢野忠庵)の生が、マラーノ的矛盾に満ちているとして、詳しく紹介されている。しかし、フェレイラがマラーノの出自であるか否かは不明のため、本稿では紹介を割愛することとした。

〇 参考文献

・『マラーノの系譜』小岸昭 著、みすずライブラリー(1998年)

・『希望の帆』シモン・ヴィーゼンタール著、徳永恂・宮田敦子 訳、新曜社(1992年)

・『イエズス会の世界戦略』高橋裕史 著、講談社選書メチエ(2006年)

(公開日: 2020年10月26日)

(改訂日: 2020年12月20日)

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