今回ご紹介する本はこちらです。
書名: コロンブスはなぜアメリカ大陸に渡ったのか
キーワードは「ユダヤ人」問題
著者: 福井次郎
出版社: 彩流社
出版年: 初版2008年
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〇 1492年、スペイン
1492年1月2日 スペインにおけるイスラム勢力の最後の拠点グラナダが陥落。ここに、800年近く続いたイベリア半島内でのイスラム教徒の支配が終わり、カスティリア女王イサベラとアラゴン王フェルナンド2世のカトリック両王によってレコンキスタ(国土回復運動)が完了した。降伏は前年秋に決まっていたが、アルハンブラ宮殿への儀礼的な入城式がこの日に行われた。
その直後、かねてからコロンブスの西廻り航海の計画を検討してきたタラベーラ委員会が、計画に否定的な結論を下す。両王の面前に呼び出されたコロンブスは、その旨を通告され、失意の内にグラナダを発つ。
だが、彼がグラナダから約15キロのピノス・プエンテの村まで来た時、女王の急使が追いつき、問題を再考するからすぐに戻るように伝える。この時、女王を翻意させたのは、アラゴン王国の経理官ルイス・デ・サンタンヘル(後述)という人物だった。
その後、三ヶ月に及ぶ交渉の末、1492年4月17日、コロンブスと両王の間に協約書(サンタフェ契約)が取り交わされる。
1492年8月3日 コロンブスの船隊がスペインのパロス港を出港。
1492年10月12日 コロンブス、アメリカ大陸に到達。
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実は、同じ年にスペインでもう一つ重要な出来事が起きている。
1492年3月31日、イサベラとフェルナンドのカトリック両王がユダヤ人追放令に署名。スペインのユダヤ人は、キリスト教に改宗するか、さもなければスペインから追放されるか、という二者択一を迫られた。キリスト教に改宗しないユダヤ人は、同年7月31日までに国外へ退去するよう命じられたのである。
この時、国外追放となったユダヤ教徒は、一説には約15万人いたとされる。うち、約12万人が陸路で隣国ポルトガルに逃れた1)。また、多くの者が船でスペインを離れた(なお、隣国フランスはすでに1394年にユダヤ人追放令を出していた。ポルトガルも、この後、スペインから遅れること5年の1497年にユダヤ人を追放する。)
国外退去のために資産を売却しようにも買い叩かれ、投げ売りによって得たわずかの資産も、貴金属の国外持ち出しを禁止されたため没収された。
この時スペインから船出したユダヤ人たちは、飲めるだけの金(きん)を飲み込んで船に乗ったのである。(なお、ユダヤ人の黄金に対する執着は、生理的とも言えた。歴史的に流浪の民であったユダヤ人は、常に持ち運び可能な資産を身に着けていなければならなかったからだ。)
追放の期日は7月31日だったが、実際に多くのユダヤ人が船出したのは8月2日から3日にかけてだった。王令により、大勢のユダヤ人がパロスの隣のサンタ・マリア・デ・ラ・シンタに集結させられ、アフリカ、トルコ方面に向かった。
コロンブスがパロスを出港した1492年8月3日は、正にこのタイミングに当たっていたのである。その時、パロス港の海上にはユダヤ難民を乗せた船が航行しており、コロンブスはその船(今で言うボート・ピープル)を横目に見ながら船出したのだ。1492年にスペインで起きた3つの出来事、(1) グラナダの陥落(レコンキスタの完了)、(2) コロンブスの西廻り航海の派遣決定、(3) ユダヤ人の追放は、実は相互に関連している可能性があるのだ。
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