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【うらおもて歴史街道 No.5】 隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン

〇 ルイス・デ・アルメイダ

イスラエルの哲学者イルミヤフ・ヨベルは、前掲書『スピノザ 異端の系譜』の中で、生涯が二つの相反する期間に、それもしばしばがらりと変わった二つの時期に分断されているところに、マラーノの典型的な生き方が認められると指摘し、その例として、商人から理性の哲学者になったスピノザなどを挙げている。

ルイス・デ・アルメイダ(1525-1583年)はリスボンのマラーノの家柄に生まれ、貿易商から宣教師になり、さらには医者として日本の近代科学にも貢献した、マラーノに典型的な二重経歴を地でゆく人物である。

現「日本二十六聖人記念館」館長パチェコ・ディエゴ師が、1989年にマカオ文化学会から刊行された著書『ルイス・デ・アルメイダ(一五二五-一五八三) ― 光を燈す医師』冒頭で、次のように書き記している。

「最も正確だと認められる説によれば、ルイス・デ・アルメイダは一五二五年にリスボンで生まれた新信徒(cristãos novos)であったということです。即ち、リスボンのユダヤ系の家族に生まれたのでした。」

パチェコ・ディエゴ師はイエズス会インド巡察視アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539-1606年)の記述に従っているので、ルイス・デ・アルメイダのマラーノ出自説は、「最も正確だと認められる説」だと言ってもいいだろう。

「日本にやってきた宣教師のなかにもマラーノ(改宗ユダヤ人)がいたことは想像に難くない。日本に最初に西洋医学をもたらしたポルトガル人ルイス・デ・アルメイダ(1525-83)は本来は貿易商であり外科医であった改宗ユダヤ人であり、イエズス会に入会したのは豊後大分においてである。天草や島原にキリスト教を伝えた彼は、医者から貿易商、さらには宣教師へと変身の人生をおくったわけで、これもマラーノならではの生き方と言えるのだろう。日本で医者として開業するに当たっては内科に漢方、外科に西洋医学と使い分けたというが、そういうところにもマラーノ的な柔軟さ、二重性が現れていると思われる。」(「マラーノの功績 ― 潜伏するユダヤ教徒 ― 日本の科学発展に尽くす」福岡大学教授 大嶋仁 氏、『西日本新聞』)

アルメイダは、おそらく23歳の時(1548年頃)祖国ポルトガルを脱出し、インドのゴアに渡った。ポルトガルでは、1536年に設置された異端審問所の恐怖が国中のマラーノを怯えさせていた。

だが、ゴアはユダヤ人には厳しい第二のリスボンだった。そこでも裕福なユダヤ人を妬む密偵たちの目が光っていた。だから、その向こうに広がる果てしないアジアの海が、進取の気性に富んだアルメイダを冒険へと誘ったのだろう。

アルメイダは1554年頃まで中国南部ランパカウとマラッカおよびマカウ間の貿易に従事し、莫大な富を築いた。当時の中国明朝は海禁政策を採り、海外貿易を厳重に統制していたので、貿易商人ルイス・デ・アルメイダの商売も、中国人私商との密貿易の形で行われていた。

アルメイダは30歳になる1555年を契機に、海での危険な生業から身を引き、霊魂救済の道に向かう決断をした。そして同年、ドゥアルテ・ダ・ガマの船に乗って日本に渡った。アルメイダは、大分に乳児院を建設するために1,000クルザードを寄付した(当時、100~150クルザードは銀の延べ板1貫=3.75キロに相当したとされる)。翌1556年には布教長トルレス神父の助修道士としてイエズス会に受け入れてもらい、全財産を教会と伝道活動のために寄付し、過去の自分からの転身を遂げた。

アルメイダはこの30歳の決断について、イエズス会士インド管区長メストレ・ベルショール師に宛てた1555年9月16日付の書簡(平戸発→マカオ行)の中で、次のように告白している。

「私がここ [日本] に残った理由は次の通りです。とにかくいくらかは神様に仕えなければいけないと思ったことと、三十歳になんなんとする今、みんな自分の生活方法を定めるように教会から教えられたこととのためです。このような神様のお教えになる生活方法に従って、大罪を犯さずに生きるため、そしてそのような生活方法を選ぶために、私に力を与えてくださる方、即ち我が主イエス・キリストから助けを得なければならないと思って、今年この国にバルタザール・ガコ神父と共に残ることに決めました。それは全く、我が主が自分の聖なる奉仕と私の救いのためにお教えになる生活方法を選ぶためでした。」

本書著者の小岸氏は、この書簡の中の「大罪を犯さずに生きるため」という一言に注目している。

前述の冒険商人メンデス・ピントによれば、1555年5月にルイス・デ・アルメイダという名の船長がマレー半島のパタネでジャンク船一隻を拿捕し、船内にいた六十人を皆殺しにし、このジャンク船もろとも多くの商品を焼き払った、という事件があった。小岸氏は、この「大罪」に対する悔い改めが、アルメイダが転身を決断する契機となったのではないか、と見ている。(ただし、この船長ルイス・デ・アルメイダと、件の貿易商人ルイス・デ・アルメイダとが同名異人という可能性がない訳ではない。)

アルメイダが1555年に豊後府内に来て目にしたものは、応仁の乱(1467-1478年)に続く戦国争乱後の混乱した世相、民衆の極貧生活、それによる堕胎・間引き・捨て子の横行だった。こうした惨状を黙視できなかったアルメイダは、豊後の領主大友義鎮(よししげ、宗麟)の協力を得て、私財を投じ、乳児院を建て乳児の養育を始めた。

私財をことごとくイエズス会に寄付したアルメイダは、まずは乳児院・病院建設という社会事業のためその豊かな才能と技術を使い、それが日本における医療活動の皮切りになった。アルメイダは、追放令下のスペイン・ポルトガルにおいてマラーノの伝統的職業とされていた医者の免許を、国王ジョアン3世から下賜されていた。

今日の大分アルメイダ病院の前身をなす府内病院は、本邦医学史上最初の洋式総合病院で、外科・内科およびライ病棟の二病棟があり、こうして日本で初めて本格的な西洋医療が施されるに至った。しかもアルメイダは助手に日本人を使い、臨床教授および医師養成にも力を入れるなどの実践から、内科医療に長けたパウロやミゲルという日本人医師が生まれた。

アルメイダの医療実践には、融通無碍なマラーノに特徴的な折衷主義があった。彼は、鉄砲玉の負傷や腫瘍の治療などにおいてヨーロッパ最新の外科手術を施す一方で、内科としては漢方薬の効力や味噌の栄養価も積極的に認めていた。

キリシタン伴天連は「赤子の血をすすり、生き肝をとって食べる」というデマがまことしやかに流布していた当時の日本に西洋医療を根付かせてゆくためには、ヨーロッパの治療法と併用して漢方医学をも重視するようなマラーノ的な現実主義が必要だったのだろう。西洋と東洋の区別にこだわらないアルメイダの創意工夫によって、府内に内科・外科および薬局と入院という近代的性格を備えた病院ができ、治療が活発に行われた。

「マラーノはいつ祖国から、都市から、そして自分の職業からも追放されるか分からないきわめて不安定な場に身を置いていたので、他の場所へ移って行ってもすぐ対応できるように、日頃から自らの知性を多面的に鍛錬していたのである。彼らにとって、来世よりは現世の方が重要だったし、また歴史的な宗教がその権威の拠り所にしている絶対無条件の超越的ロゴスよりも、世俗的なものの中に価値を見出して生き続けてゆくことが先決問題だった。だからキリスト教徒が忌み嫌う金融業も彼らのいわば専売特許のごときものだったし、また宗教の拘束を受けることが比較的少ない近代医学も、マラーノが誰よりも先に進出していった領域だった。

大航海時代に自由を求めて海外に向かったマラーノの冒険家の中に医学の心得のある人が少なくなかったのは、カトリック王国ポルトガルのそうした社会背景から説明できるだろう。」(本書p. 288-289)

前述のマラーノの冒険家メンデス・ピントが『東洋遍歴記』の中で記している、彼自身が行ったという外科手術の話は、必ずしも荒唐無稽な作り話ではなく、1544年から45年にかけて行われた 日本で最初の南蛮手術と関係があるかもしれない、と海老沢有道は推測している。

「アルメイダは、トレント公会議における聖職者の医学とくに外科手術の禁止を受けて、1561年豊後府内の病院から手を引いた。その運営を日本人の弟子たちに任せたアルメイダは、日本におけるイエズス会の会計係を務め、その関係で、ポルトガル船が平戸、横瀬浦、福田、長崎などに入港する度に出かけて行っては、病弱な布教長トルレス神父の代理として各地の領主との交渉を行うという、文字通り「絶えざる運動者(Perpetuum mobile)」の生活に入っていった。」(本書p. 49)

1562年7月16日、アルメイダは大村で最初のキリシタン大名・大村純忠と会った。この時38歳のアルメイダは、横瀬浦開港交渉という大仕事を完結させた。それから20年後の1582年には、大村領のキリシタンは6万人(当時日本のキリシタン総数の4割)だったというから、アルメイダのこうした外交交渉と同時に布教活動がいかに目覚ましいものであったかが分かる。

イエズス会総会は、全員が医学教授とその実践に関わることを禁じたため、やがてアルメイダは医療事業から手を引かざるを得なくなった。(しかし、このイエズス会士の医療活動禁止令にもかかわらず、アルメイダは密かに医療行為を行っていたようだ。)

人間の魂の永遠の救済こそ真の職務とすべきだとするイエズス会にとって、現世での肉体の生死に関わる一切の医療行為は、聖職者の道にもとる世俗的な事柄だった。

ポルトガル国王は日本布教に携わる宣教師への経済的援助を約束しながらも、それはほとんど実行されることがなかった。『イエズス会の世界戦略』(高橋裕史 著、講談社選書メチエ、2006年)によれば、ポルトガル国王給付金の支払いが停滞する中、イエズス会は広範な貿易活動などで資金を捻出し、それを布教に充当することによって教団を維持できたという。「地上という世俗社会において教団を発展させ、(中略)教勢の伸展をはかってゆくには、好むと好まないとにかかわらず、教団自身も世俗化しなければならなかった」(同書p. 84-85)のである。

アルメイダが入会時に寄付した4,000クルザードを基に開始された、イエズス会の日本・マカオ間の生糸貿易への投資などというあまりにも世俗的過ぎる事業は、イエズス会が最も表沙汰にしたくない問題だったろう。

アルメイダは、医療の実践や生糸貿易といった世俗的な裏側に深く通じた人物であった。非常な経済的困苦にあえぐ当時の日本イエズス会にとって、アルメイダのような人物は、まさに貴重な人材だったに違いない。

貿易開始後間もない頃から、アルメイダの入会に伴うイエズス会の貿易収支改善によって、ザビエル、トルレスのような日本布教の創始者たちが先鞭をつけた時代の福音的清貧が破壊され、会員たちの修道精神が弛緩してしまったことへの批判が、イエズス会内部から起こるようになった。

「そうした教団の世俗化が行き過ぎたために、イエズス会は内外から批判を浴び、一七七三年には教皇クレメンス一四世によって解散を命じられることになった。」(前掲書『イエズス会の世界戦略』、p. 85)

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