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【うらおもて歴史街道 No.5】 隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン


〇 フランシスコ・ザビエルと異端審問

イエズス会士フランシスコ・ザビエル(1506年頃-1552年)はユダヤ人ではないようだが、ポルトガルの厳格な異端審問制度に、したがって異端者とされたマラーノの迫害に深く関わっていた。

イエズス会に伝道者の派遣を求めてきたポルトガル国王ジョアン3世(在位1521-1557年)の要請を受け、1540年3月15日、イグナチオ・デ・ロヨラの秘書フランシスコ・ザビエルはローマを発ち、陸路の旅の末、同年6月末にリスボンに着いた。

ザビエルがリスボンに到着した時、ヴァスコ・ダ・ガマのインド「発見」(1498年)からおよそ42年、アフォンソ・デ・アルブケルケが軍事力でゴアを征服(1510年)してからすでに30年が経過していた。世界規模の海洋帝国を築いた後のポルトガルには、露骨な軍事的拡張主義からの転換が求められていた。強力な世継ぎもなく、経済的にも斜陽の時代に入りつつあった当時のアヴィス王朝は、国外においては宣教活動を、国内においては異端審問所の活動を積極的に推し進めようとしていた。

1540926日、リスボンにおいてポルトガル異端審問所最初の火炙りの刑が執行された。「それは、この時代ポルトガルで挙行された最も荘重な行事だった」とドイツ人イエズス会士ゲオルグ・シュールハンマーは記している(『フランシスコ・ザビエル――その生涯とその時代』、1973年)。リスボン市やその近郊から大群衆が、この珍しい見せ物を見るために集まった。国王、高位聖職者、そして市の貴族たちのほとんどすべてが顔をそろえた。

フランシスコ・ザビエルは、大審問官ドン・エンリケの命により、この日処刑された二人の死刑囚に死の最後の瞬間まで付き添うよう言われていた。そのうちの一人、ユダヤ人ディエゴ・デ・モンテネグロは、目の前に突きつけられた十字架を見上げることを拒否したまま、やがて呪わしい炎の中に包まれていったという。前記シュールハンマーは「モンテネグロは無実であり、虚偽の密告によって有罪にされたのだという新キリスト教徒『マラーノ』が多かった」と注釈をつけている。

ローマのペトロ・コダチオおよびイグナチオ・デ・ロヨラ宛の1540年10月22日付書簡によると、この頃のザビエルは主としてユダヤ教信仰の廉(かど)で収監されていたマラーノの囚人を毎日刑務所に訪れている。

「私たちはこの国の宗教裁判所長官で、国王の兄弟であるドン・エンリケ王子から、宗教裁判所に留置されている人たちの世話をするように幾度も頼まれました。それで刑務所を毎日訪れ、主なる神が彼らの救いのために留置して恩恵を与えてくださっているのだと、彼ら自身が納得できるように話しています。そこでは毎日全員を集めて説教をしていますし、第一週の霊操で、彼らは霊的に大いに進歩しつつあります。」

このような「罪人」処刑に立ち会うザビエルがポルトガル・カトリックの残酷な恐怖政治に深く関わっていたことは間違いない。

サビエルはリスボンに10か月滞在した後、「東洋の使徒」としてインドに向けて旅立った。

1542年5月6日、ザビエルはインド西岸のゴアに到着した。ゴアは1510年にアルブケルケによって征服されて以来、インド亜大陸におけるポルトガル植民地の政治的・経済的な中心地であった。リスボンを模して建設されたマントヴィー河畔のこの町には、総督や政府高官、そして自由を求めてこの地に渡ってきたマラーノを含む富裕なポルトガル商人が大勢住んでいた

ザビエルは、同年10月にはインド南端の漁夫海岸に赴いて宣教を開始した。13世紀末にマルコ・ポーロが『東方見聞録』において「量りきれないほどの巨額な真珠が採取されている」と書いて以来、インド最南端のコモリン岬からラメシュワラムに至るこの漁夫海岸は一躍有名になった地方である。この地方の住民は「パラヴァス」と通称され、主として真珠採取を生業としていた。

同地では、1536年に政治的取引によって住民二万人がキリスト教に「大改宗」していた。だが、ザビエルが訪れてみると、大改宗の際にキリスト教徒になったはずのパラヴァスは相変わらず元のヒンドゥー教の生活を続けていたのである。

漁夫海岸に赴いてから八か月後、ザビエルはどんな方法を使っても、主なる神の御もとへ行こうとはしないパラヴァスの頑迷さに気づき、号を煮やす。漁夫海岸で布教活動の厚い壁に突き当たったザビエルは、1546年5月16日付ジョアン3世宛の書簡の中で、説教者派遣を要請する。

「インド地方では説教者が足りないために、私たちポルトガル人のあいだでさえも、キリストの聖なる信仰が失われつつあります。……[その原因は要塞のポルトガル人が] 未信者たちと絶えず商取引をしているために信仰が薄く、贖い主、救い主であるキリストへの信仰よりも、しばしば物質的な利益のみを念頭においているからでございます。」

これに続いて、ザビエルはゴアに異端審問所を設置するよう提言する。

「インドで必要とする第二のことは、こちらで生活している人たちが善良な信者となるために、陛下が宗教裁判所を設置してくださることです。こちらではモーセの律法に従って生活する [ユダヤ教徒] やまたイスラム教の宗派に属している者たちが、神への恐れや世間への恥じらいなしに平然と生活しております。そしてこれらの人びとが大勢、しかもすべての要塞に散らばっておりますので、宗教裁判所や多くの説教者が必要です。」

このザビエルの提言から14年後(1560年)に、ゴアで異端審問所が活動を開始する。そして1571年ゴア異端審問官に任命されたバルトロメウ・デ・フォンセカは、狂信的なマラーノ摘発を行って、「ゴアを火で満たし、異端者と背教者の死体から得た灰でいっぱいにした」のであった。

ゴアの港町における「アウトダフェ」(ダヴィッド・ヘルリベルガー銅版画)
ゴアの港町における「アウトダフェ」(ダヴィッド・ヘルリベルガー銅版画?、1748年)

「後年聖人として列聖されることになったザビエルが、いかに多くの人々の苦しみと残酷な死の原因となる非人間的な提言を行ったかは、想像を絶する。」(現オールド・ゴア博物館館長P. P. シロトゥカー、本書p.77)

世に「稀有な聖人」と称されるフランシスコ・ザビエルは、神の名においてスペイン・カトリックの恐怖政治が公然と行われた時代の申し子であり、したがって彼の歩みもイベリア半島のユダヤ人迫害および虐殺の歴史と決して無縁ではなかった。

(付記)

なおイエズス会は、インドにおいては主にカースト制度で卑賤視されていた不可触民、日本においても賤視されていた下層の民衆に布教の重点をおいたが、本稿では詳しく触れる余裕がない。

(参考音源)

“The Burning” by GARGOYLE (USA)

米国のヘヴィ・メタル・バンド GARGOYLE(ガーゴイル)の同名アルバム(1988年)より(日本の同名バンドとは無関係)。火刑の情景を歌った楽曲だが、異端審問ではなく魔女狩りによる火刑の可能性もある。

Children, gather ‘round the burning

Fire, let it cleanse the soul

It’s the last thing you’ll see

As you die by the flame

子供らよ、火刑の周りに集え

火が魂を浄めんことを

炎に焼かれて死ぬ時

それが最後に目に映るもの

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