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ユダヤ人追放令下において、自発的にユダヤ教を離れ正真正銘のキリスト教徒として歩み始めた改宗者もいたが、一方で相変わらず心に父祖の信仰を抱き続ける改宗者も大勢いた。そして、このような隠れユダヤ教徒が、執拗にユダヤ教信仰の証拠を嗅ぎ回る異端審問所の標的とされていったのである。
「スペインでは1480年から活動を開始し、ポルトガルでは1536年に設置された異端審問所は密告制度を敷き、隠れユダヤ教徒の摘発に乗り出した。不幸にして異端の証拠を嗅ぎつけられたマラーノは、異端審問所の一方的な筋書きに従って審問され、拷問にかけられ、有罪とされて、全財産を没収されるか、場合によっては、火炙りの刑に処せられるかしたのである。このような異端審問は『神聖裁判』と呼ばれていたが、実際は地位もあり財産もあるマラーノからの財産没収が異端審問所と権力者の目的であった。」(本書p. 29-30)
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異端審問時代のカトリック王国は、市井の密告者たちの王国であった。
「教会と国家の間の協定に基づいて、密告者は無税だった。善良なカトリック教徒の理想は、密告者であるということだった。」(シモン・ヴィーゼンタール著、徳永恂・宮田敦子 訳『希望の帆』p.51、新曜社、1992年)
「ちょうど数百年後のナチス・ドイツやソヴィエト連邦で、『理想的な誠実な市民』とは密告者のことであったのと同じである。」(同書p. ii)
密告者は、特に安息日が始まる金曜日の夕方から土曜日の夕方にかけて、物陰からマラーノの挙動に不審な点がないかどうか目を光らせていた。そして異端審問所での裁判の際、彼らは、マラーノが安息日や祭日を祝っているのを目撃したとか、安息日には温かい食事を作らないマラーノの家の煙突からは煙が一筋も立ち昇らず、蠟燭を灯して秘密の儀式をしていたとか、あるいはマラーノの妻たちがユダヤの食餌規定「カシュルート」に従った料理を作っていたなどと証言した。
一方、密告された者は、自分を告発した者が誰なのかも分からず、自分の立場を弁明することも弁護士に相談することもできないまま、拷問によって自白を強要され、場合によっては火炙りの刑「アウトダフェ」の判決を下された。
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スペイン・ポルトガルでは豚肉を食べることが敬虔なキリスト教徒の慣習とみなされていたが、ユダヤ人の食餌規定によれば豚肉は食べてはならない食品の代表であった。豚肉を食べるのを拒否すれば、ユダヤ教を信じているものとみなされ、異端審問所に訴えられる恐れがあった。マラーノは、豚肉を洗って、血や血管を抜いたものを食べて、カトリック教徒を装いながら、密かにユダヤ教の慣習に従った。このように、豚食がマラーノにとって一種の「踏み絵」とされた。
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異端審問所の手先になる旧キリスト教徒に対する嫌悪感を示す銅版画を、スペインの画家ゴヤ(1746-1828年)が描いている。
『ロス・カプリチョス(気紛れ)』(1799年刊行)48図「告げ口屋」で、ゴヤは人を襲う野生の鳥を描いている。この鳥が異端審問時代に暗躍した密告者を表わしていることは、間違いない。
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「1391年に最初の集団改宗が起こってから数十年の歳月が経過する中で、大いに社会進出を果たしたマラーノ、とりわけ彼らの中の高利貸しや徴税請負人に対する旧キリスト教徒の妬みと憎悪が原因となって、1449年、影響力の大きな古都トレドは深刻なユダヤ人虐殺『ポグロム』の舞台となった。マラーノの排除を求める旧キリスト教徒の掛け声はもはや宗教に根拠を求められなくなったので、それは遺伝の用語、すなわち『血統』の問題に移し変えられた。かくてマラーノは、何らかの職業に就くにはあまりにも劣等で、彼らの血は不純であるとされていった。このような、主として社会的・経済的背景から、1449年、マラーノを市議会から排除する純血法がトレドで布告されたのである。
しかし、このような旧キリスト教徒の反ユダヤ感情から生まれた(中略)『純血法』は、ローマ法王によって承認されるには至らなかった。この純血法がついに勝利を収め、まずはスペインで、後にポルトガルで国法になったのは、熱烈なカトリック主義者フェリペ二世の治世(在位1556-98年)である。15世紀半ばのスペインに初めて姿を現した純血法は、今や先祖にユダヤ人の血を一滴でも持つ人間を社会的に抹殺するという厳しい法的制度に拡大強化された。」(本書p.82-83)
「スペインでは『純良な血統』は重要な価値をもつという新しいイデオロギーが生れた。ユダヤ人追放後にスペインに留まった者は、『血統証明書(リンピエサ・デ・サングレ)』、つまりユダヤ人やムーア人 [イスラム教徒] の血統ではないという証明書を提出しなければならなかった。これはナチスの非ユダヤ人証明書の先駆けであった。」(前掲書『希望の帆』p. ii)
諸民族の共存と混血が独自の魅力を生み出していたはずなのに、今や純血法によって同じ国民を貴い国民と卑しい国民に峻別することを新しい伝統にしたスペインを鋭く批判する、画家ゴヤの素描が存在する。
マラーノの一群が、沿道の群衆の侮蔑と嘲笑を浴びながら、牢獄からアーチ門を通って異端審問所の法廷へ引きずり出されていくところである。彼ら「罪人たち」は、それぞれの罪状を記した円錐状の紙の尖り帽子「コローサ」をかぶり、前と後ろに黒い十字架を描いた紙の上着「サンベニート」を着せられている。
裸足で火刑場に向かう女性。立ち込める黒煙に背中を向け、顔を両手で覆っている。
(参考音源)
“Inquisition ~ Banish from Sanctuary” by BLIND GUARDIAN
イントロの “Inquisition” は「異端審問」、曲名の “Banish from Sanctuary” は「聖域から追放」の意。
ドイツのクレフェルド出身の4人組 BLIND GUARDIAN(ブラインド・ガーディアン)、1989年発表の 2nd アルバム “Follow the Blind” より。
当時、ジャーマン・メタル(ドイツのヘヴィ・メタル)という触れ込みで売り出されていたが、いま改めて聴くと、ジューイッシュ・メタル(ユダヤのヘヴィ・メタル)ではないかという思いを禁じ得ない。15世紀末にスペイン・ポルトガルから追放されたユダヤ人の情念が、5百年の時を超えて響いてくるようだ。このバンドのメンバーがユダヤ系かどうかは不明だが、クレフェルドにはユダヤ人コミュニティがあるらしいから、その可能性はあるだろう。
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