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【うらおもて歴史街道 No.5】 隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン


〇 スペイン、ポルトガルにおけるカトリックの恐怖政治

カトリック王国スペインはヨーロッパのキリスト教国の中で、ユダヤ人迫害と抑圧の歴史を深く刻んだ国であった。

スペインは、紀元70年に祖国を失った離散ユダヤ人にとって、数世紀にわたっていわば約束の地であった。スペインは711年にモーロ人(イスラム教徒)に征服されるが、その後、キリスト教君主が国土再征服運動(レコンキスタ)を進める中で、ユダヤ人は宮廷の行政面において優れた能力を発揮した。そうしてスペインではキリスト教徒とユダヤ教徒の平和的共存が進んでいった。また、キリスト教とイスラムの仲介者として多言語に精通していたユダヤ人は、アラビアやギリシャの様々な学問(医学・占星術・天文学など)のヨーロッパへの伝達においても多大の貢献をした。

だが14世紀に入ると、スペインでは反ユダヤ主義の高まりが見られるようになる。カトリック教会が公会議や聖職者と手を結んでいかにユダヤ人憎悪を民衆の心に植えつけたか、また経済・行政面でユダヤ人に支えられていた支配者たちがいかに彼らの態度を翻すに至ったかは、事例に事欠かない。

1328年、北スペインのナバラ王国において、フランシスコ会修道士ペドロ・オリホーイエンに扇動されて暴徒化した民衆が六千人以上のユダヤ人を虐殺。イベリア半島で最初の大きなポグロム(ユダヤ人虐殺)の一つとなった。

1391年6月6日にはセビーリャで、最も凶悪な反ユダヤ人暴動が起こった。「スペインはユダヤ人を一掃しなくてはならない。ユダヤ人はスペイン全体を奴隷化する陰謀をたくらんでいる」という、狂信的なフェランド・マルティネス副司教の激しい反ユダヤ主義的な説教に扇動された暴徒らによって、セビーリャの繁栄したユダヤ人共同体が破壊され、数千人が虐殺された。避難出来なかった残りのユダヤ人は奴隷として売り飛ばされた。

その後、ポグロムは燎原の火のようにイベリア半島全体に広がり、七万人以上が犠牲となった。これによって、キリスト教徒の迫害を避けるために父祖の信仰を棄てざるを得なかった改宗ユダヤ教徒が生まれたのである。

この改宗者「コンベルソ」は、新キリスト教徒「クリスティアノス・ヌエボス」あるいは「マラーノ」(古いカスティーリャ語で「豚」の意)と呼ばれ、スペインの多数派たる旧キリスト教徒「クリスティアノス・ビエホス」から区別された。彼らはユダヤ人街「フデリア」から出て、キリスト教社会に移り住み、旧キリスト教徒と同じ権利を与えられ、社会的進出を果たしていった。

迫害の嵐が過ぎ去ってみれば、改宗者の多くは、王家をも含む貴族との縁組を積極的に推し進め、司法・行政・軍隊・大学・教会などで、従来宗教的な理由からユダヤ人が締め出されていた職業に進出し、高い社会的地位を獲得していった。

旧キリスト教徒の一般市民は、改宗者の目覚ましい社会的進出に対する嫉妬と、彼らの「隠れた」信仰に対する呪詛の念を強めた。改宗者(マラーノ)たちは表面的にカトリックを受け入れたに過ぎず、心の中や家庭では相変わらず父祖の宗教と慣習に従っているのではないかという疑いにさらされ続けることになった。

こうした中、1477~78年にかけて、セビーリャのドミニコ会修道院院長であり反ユダヤ主義者として世に聞こえたアロンソ・デ・オヘダは、カスティーリャ女王イサベル(在位1474-1504年)に対して、「領土内に宗教的純粋性を確立し、国内に巣くう害毒を除去する唯一の方法は、異端者を狩り出し処罰することであり、そのためには異端審問所を設立する以外に道はない、と(中略)訴えた。その頃、女王の心はもっぱら対イスラム戦争に向けられていたが、やがて国土再征服運動が軌道に乗り出すと、ただちに神聖裁判所の設置をめぐって、当時の教皇シクストゥス四世との話し合いに入った。その際、改宗者たちから財産を没収すれば、収入がどれほど期待できるかという問題が議論された」(前掲書『マラーノの系譜』、p.14)

女王イサベルは、彼女の聴罪司祭トルケマダ(後に大審問官となる)の支持を取り付け、教皇シクストゥス4世に、異端審問所を設置する嘆願書を提出した。これにより1478年11月11日付の教皇勅令が発布され、1480917日、最初の異端審問官が任命された。こうして間もなく、ユダヤ人の密集地セビーリャのドミニコ派修道院に「神聖裁判所」が設置された。

命の危険を感じた数千人のマラーノが町を逃げ出したが、たちまち捕らえられた。これに対して、マラーノ側も町の有力者ディエゴ・デ・スサンを中心にして武装し、二人のドミニコ派審問官の暗殺を企てた。しかし、この計画は事前に漏れてしまい、首謀者は逮捕された。こうして最初の裁判が1481年2月6日に開かれ、男女六名が財産を没収された上に、生きながら火炙りの刑に処せられた。これがスペインにおける公開の火炙りの刑「アウトダフェ」(ポルトガル語auto da féから。「信仰の行為」の意。英語act of faithに相当)の始まりだった。残酷な火炙りの見せ物も、次のような聖書の言葉によって正当化された。

「人もし我に居らずば、枝のごとく外に棄てられて枯る、人々これを集め火に投入れて焼くなり。」(「ヨハネ福音書」第15章第6節)

こうした状況下、セゴビアのドミニコ派サンタ・クルス修道院院長トマス・デ・トルケマダが1483年10月大審問官に任命され、スペインの最も有名な神学者たちも彼を頂点とする異端審問制度の協力者になっていった。かくてスペイン異端審問所は王国の「聖なるカトリック信仰」という正義強化の装置となり、異端的な改宗者を厳罰に処する政治的な暴力装置になっていく。異端審問所は凄まじい財産没収欲を持った巨大な官僚組織を作り上げていった。

アウトダフェ(火炙りの刑) ベルゲーテ作
「アウトダフェ(火炙りの刑)」
ペドロ・ベルゲーテ作(油絵、1493-99年頃作)

聖ドミニクス(1170年頃-1221年)臨席の下に行われた異端アルビジョア派の火炙りの刑を題材にした絵とされるが、実際に描かれているのは画家ベルゲーテが生きた15世紀スペインの異端審問の場面ではないかと見られる。

カトリック両王の偉業とされる1492年1月2日のグラナダ陥落とそれによる国土再征服運動の完成に対して、王国の経理官や財政顧問を務めていたマラーノが多大の貢献をしていたにもかかわらず、同年3月31日付でカトリック両王はユダヤ人追放令に署名。1492年8月3日をもって、追放令下のスペインからユダヤ教徒が事実上一掃された。

この20世紀以前の歴史において最大の追放とされる1492年のスペインからのユダヤ人追放の際、五万人が洗礼に応じ、十数万人が難民となってスペインを後にした。そのうち約十二万人が、危険な海を渡る必要がない上に、言葉も習慣も似ている隣国ポルトガルへ向かったが、そこでもポルトガル王家とスペイン王家との婚姻によって、1496年末にユダヤ教信仰は禁止されるに至った。カスティーリャ女王イサベルは、ポルトガル国王マヌエル1世(在位1495-1521年)に対し、スペインの王女イサベルとの結婚の条件として、ポルトガルもスペイン同様にユダヤ人追放令を出すよう強要したのである。

14961225日に公布された勅令により、古くからポルトガルに定住していたユダヤ教徒も1492年にスペインからやって来た新来のユダヤ難民も、キリスト教への改宗か追放かの選択を迫られたのである。キリスト教に改宗しない者は、10か月以内にポルトガルを去らねばならないとされた。

この時、ほとんどのユダヤ人は洗礼を受けて(= キリスト教に改宗して)、ポルトガルに留まることを選んだ。スペインからのユダヤ難民は、再び彷徨の旅に出る苦痛は耐え難いと感じていたからである。彼らは同胞が道で餓死したり、海で溺死したり、奴隷として売られたりしたという話を聞かされていたし、ユダヤ人亡命者を歓迎したトルコまでたどり着いた同胞はわずかだったことも知っていた。

こうして1497年、ポルトガルでも権力による強制によって、世界最大のマラーノ化現象(改宗ユダヤ人の発生)が起こったのである。

こうした即席の新キリスト教徒は、旧キリスト教徒の大衆からは明確に区別されたままで、表面上の改宗を許さない大衆の狂信的な憎悪と攻撃の対象にされた。1506年4月19日、リスボンで修道士たちが民衆を扇動して凄絶な「新キリスト教徒殺戮の狂宴」が繰り広げられ、僅か二日間で二千人以上もの命が奪われたのは、その例である。

このような隠れユダヤ教徒に対する聖職者や民衆の憎悪は沈静化せず、やがてポルトガルにも峻厳なスペイン式異端審問制度が導入されることになる。

マヌエル1世の後を継いだポルトガル国王ジョアン3世(在位1521-1557年)の二番目の弟ドン・エンリケは、生涯純潔を守り通した厳格な禁欲主義者で、若くしてすでにブラガ司教にしてポルトガルの大審問官になっていた。このカトリシズムの正義と純潔を我が身に押しつけた仮借ないドン・エンリケの発言権が強まってきた1536、この弟の要請に応えるように、ジョアン3世は、リスボン、エボラ、コインブラにおいて異端審問所の開設に踏み切っていった。

ポルトガルにおけるマラーノの迫害は、スペインにおけるよりももっと執拗かつ陰険な形で進められていった。大審問官ヨハネス・デ・メロによって、リスボンに地下牢が作られ、ここで信仰に疑いのあるマラーノが鞭を打たれ、体から皮膚を剥がされたり、踵を焼かれたりする拷問を受けた。

スペインにおけるよりも迫害の手口が陰惨だったポルトガルにおいて、マラーノは一層深く地下に潜り、表面的には厳格にカトリックを守り続けながら、カトリックとユダヤ教の両宗教混淆のマラーノの宗教を発展させた。

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