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【うらおもて歴史街道 No.5】 隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン


一方、日本でも、まだキリシタン禁令が解かれていなかった1865年、長崎の大浦天主堂の完成が契機となり、フランス人神父ベルナール・タデー・プティジャン(1829-1884年)によって長崎で隠れキリシタンが「発見」されるという出来事が起きている。

ポルトガルのベルモンテにおいて隠れ信徒発見の決め手になったのは、ヘブライ語の「アドナイ」だったが、長崎において決め手になったのは聖母子像を表わす「サンタ・マリア」だった。

その後、長崎だけでなく、外海(そとめ)、五島、天草、生月(いきつき)などから名乗りを上げた隠れキリシタンの数は「五万人」と推定されるという。

隠れユダヤ教徒「マラーノ」たちが、数百年にわたる歳月の経過の中でユダヤ教の正統からは外れていったのと同様に、日本の隠れキリシタンたちの信仰もカトリックの正統からは外れてしまっていた。隠れキリシタンたちは、表面上は仏教徒を装いながら、隠し十字架や先祖から伝えられた御神体を秘蔵して拝んだり、オラショ(注1)を唱えたり、盆踊りに見せかけてサンタ・クララ祝日の祈りを行ったりして、内なる信仰を守り続けていた。

(注1)オラショ: 隠れキリシタンの間で口伝によって伝承されてきた祈りの歌。ラテン語で祈祷を意味するoratio(オラツィオ)に由来。元々は宣教師によって教えられたラテン語の祈祷文にメロディを付けて歌われたものだが、歳月の経過とともに意味内容が理解されないまま唱えられるようになった。

長崎県浦上の隠れキリシタンは、やむを得ず踏み絵を行わされた後には、キリスト教の「大罪」を免れるために、帰宅後にコンチリサン(完全なる痛悔)のオラショを唱えたという。

また、五島列島最南端、福江島の玉之浦の隠れキリシタンの間で死者が出ると、彼らは読経する仏僧の後ろで着座して、表面上は霊前に祈りを捧げているように見せかけながら、「経消し」の祈りを繰り返し小声で唱えたという。経の言霊を消して、死者を清浄な罪けがれない霊身にして、送るためである。そして棺を墓所に運び、僧が帰ると、同信者が人垣を作り、棺を開けて、彼らの間に秘かに伝承された服装に更衣させたという。

このように、ポルトガルにおいても日本においても、「隠れ」信徒たちは、権力者が支配する国家の中で生き続けてゆくために、表向きは国教に従うように見せかけながら、心の中あるいは仲間内では密かに先祖から伝えられた信仰を守るという、二重性を帯びた生活をしていたのである。

イベリア半島の隠れユダヤ教徒「マラーノ」と日本の隠れキリシタン、二つの隠れ信徒の間には一見何のつながりもなさそうに見えるが、じつは世にも不思議な縁が両者の間を結んでいた。

長崎県生月島の隠れキリシタンの某家(本書には実名が記されている)には、「アルメー様」と呼ばれる小さなチキリ(竿秤(さおばかり))が御神体として伝わっている。これは、1561年に生月島を訪れた医者にして修道士のルイス・デ・アルメイダが医療の際に用いた、薬を計る秤(はかり)だという。この秤が納戸の中に隠され、代々御神体として祀られ、土地の隠れキリシタンの信仰の対象にされてきた。

このルイス・デ・アルメイダ(1525-1583年)は、日本でのキリスト教布教に身を捧げたポルトガル人イエズス会宣教師であるが、何とこの人物は隠れユダヤ教徒「マラーノ」の家系に属していたという。

マラーノたちの中には、祖国スペインやポルトガルの迫害を逃れ、海外に雄飛していった者たちもいた。そして、驚くべきことにその波は遠く日本にまで及んでいたのだ。

アルメイダ像
アルメイダ像(本渡市殉教公園、舟越保武氏作)

(参考音源)

男声合唱曲 組曲「御誦」(おらしょ)より「御誦」(おらしょ)

作曲:大島ミチル

https://www.nicovideo.jp/watch/nm4150576

ガラサガラサ みちたまふ マリア

マリア アーメン

Ave Mater マリア アーメン

ドメジャコ コベナッド

ガラサ マリア アーメン ジョズ

ツィモレンソ クロン ツベネケンツオン ハデン ゲン ドーリナン

ガラサ マリア アーメン ジョズ

キリモンヤ カシャベーナ キリモンヤ

ガラサ マリア アーメン ジョズ

Ave Maria Ave Maria

Dei ora pro nobis

           Amen

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