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【うらおもて歴史街道 No.3】 コロンブスはなぜアメリカ大陸に渡ったのか


〇 ポルトガルにおけるコロンブス

サン・ヴィセンテ岬沖海戦(1476年)でコロンブスは遭難し、泳いで岸まで辿り着きポルトガルに上陸したとされる。コロンブスがこの頃からポルトガルで暮らすようになったことは間違いない。

コロンブスの生地ジェノヴァは、1380年に地中海での東方貿易の覇権をかけて争ったヴェネチアとの海戦に敗れてから、イベリア半島(アラゴン、カスティリア、ポルトガル)との関係を深めていった。この時代、セヴィリア、コルドバ、リスボンなどイベリア半島の各地にジェノヴァ人街があった。ジェノヴァの船乗りコロンブスがポルトガルに進出するのは、ある意味自然な流れであったと言える。

ポルトガル(アヴィス王朝)では15世紀末までユダヤ人迫害が起きなかったため、1415世紀のユダヤ人迫害期に多数のユダヤ人が流入した。ポルトガルは独立を維持するために、軍資金の調達をユダヤ人に依存せざるを得なかった。また領土が狭かったため、その借金返済のために交易を重視した。その際、ポルトガル経由でフランドルとの交易を担っていたカタルーニャ人やジェノヴァ商人の助けを借りる必要があったが、その中にユダヤ系が多数いたのである。

アルフォンソ5世(在位1438-1481年)の治世が、ポルトガルのユダヤ人の黄金時代だった。そこには当時のあらゆる航海情報が蓄積していた。コロンブスがポルトガルに入国したのは、正にこの時代であった。

ポルトガルの航海事業を推進したエンリケ航海王子(1394年生-1460年没)は、サン・ヴィセンテ岬に近いサグレスに航海事業のための学術研究所を設立した。現在の研究によると、この研究所の存在自体が疑問視されているようだが、彼の周りに地図学者・天文学者・航海技術者が多数集結したことは間違いない。その中にはカタルーニャやマヨルカ、ジェノヴァのユダヤ人が多数いたのである。(マダリアーガは、マヨルカの天文学会の有力メンバーの大部分がユダヤ人だったと記している。)彼らはそこで航路図を作成したり、太陽や星を観測して緯度を計る機器を開発したりした。このようなユダヤ人学者の代表例として、イフェーダ・クレスケスが挙げられる。

サグレスに集結したユダヤ人たちの力を借りて、エンリケは大西洋の島々の征服と植民を推進した。そして、エンリケの死の13年後(1473年)に、ポルトガルの遠征隊が西アフリカのギニア湾岸のエル・ミナに到達。ポルトガルは黄金・象牙・砂糖・黒人奴隷というドル箱を掘り当てる

1481年(コロンブスがポルトガル入りした数年後)、アルフォンソ5世に代わって、ジョアン2がポルトガル王位(在位1481-1495年)に就く。ジョアンはポルトガルの航海事業をさらに推し進め、ポルトガルに絶対王政を確立した。

ジョアン2世は航海事業を推進するための学術委員会(ジュンタ)を組織し、有能な学者を各地から招聘した。その中心人物ヨセフ・ヴィショニとアブラハム・ザクートは、ユダヤ人であった。

アブラハム・ザクートの『航海暦』は当時の画期的発明であったが、ヘブライ語で書かれていた(後にラテン語訳された)。コロンブスはこのヘブライ語版の『航海暦』を知っていて実際に利用していたと見られる。(またヨセフ・ヴィショニの仲間で、世界最初の地球儀を作ったマルティン・べハイム(この人物もユダヤ系の疑いがある)が、この学術委員会に参加していたという証言がある。)

ポルトガルのリスボンには、コロンブスの弟バルトロメウが航海技術者(地図職人)として、兄よりも先に住み着いていた。(これはユダヤ人航海技術者がポルトガルに集結した流れと軌を一にしている。)ポルトガルに上陸したコロンブスは、定説ではリスボンのアルファマ地区にあるジェノヴァ人居住区を訪れ、そこで弟バルトロメウのところに寄宿し、地図制作を手伝いながら、貿易商や銀行の代理人として働いた、ということになっている。

しかし本書著者の福井氏は、この時コロンブスが実際に訪れたのはアルファマ地区のユダヤ人居住区であり、バルトロメウもそこに住んでいたのではないか、と推定している。その理由として福井氏は、コロンブスが遺書の中で「リスボンのユダヤ人居住区の門の近辺に住んでいるあるユダヤ人へ、でなければ司祭が指名する人へ、銀貨半マルクに相当する金額を与えよ」(青木康征 訳)と記していることを挙げている。小岸昭氏の著書『スペインを追われたユダヤ人』(人文書院)には、アルファマにユダヤ人街があったことが記されている

ポルトガル入国後のコロンブスについては、貿易商人として砂糖取引に携わっていたらしいことが分かっている。彼が1478年にディ・ネグロ商会との契約でマデイラ諸島に砂糖の買い付けに行ったとされる記録がある。このディ・ネグロは、当時リスボンにいた有名なユダヤ人の金貸しと同姓であることから、その親戚ではないか、とマダリアーガは指摘している。当時のマデイラ諸島では、主にイタリア商人の手によってシチリア島のプランテーション技術がもたらされ、すでに地中海をしのぐ砂糖栽培が行われていた。当時の砂糖事業は成長産業であり、多くのユダヤ人が従事していたことが知られている。

コロンブスはこの時期にかなりの財をなしたと見られる。というのも1480年(ポルトガル上陸から約3年後)、ポルトガルの貴族の娘、フェリパ・モニーズ・デ・ペレストレーロと結婚できたからだ。フェリパの父バルトロメウは、マデイラ諸島のポルト・サント島の初代総督であった

なお、フェリパの母方のモニーズ家は、改宗ユダヤ人の家系であった。また、フェリパの父方のペレストレーロ家も改宗ユダヤ人の家系の疑いがある。この時代には、改宗ユダヤ人の国際ネットワークが存在していたと見られ、コロンブスもその一員であった可能性がある。

庶民の家の出のコロンブスが、なぜ貴族の娘と結婚できたのかは一つの不思議と言えるが、砂糖取引と改宗ユダヤ人という特殊なコネクションが二人を引き合わせたのであろう。コロンブスはその筋ではすでに一等の人物として評価されていた可能性がある。

ここで特記事項として、フェリパの父バルトロメウの先妻ブリテス・フルタド・デ・メンドゥーサは、ポルトガル王ジョアン2世の側室アン・デ・メンドゥーサと親戚であった。後にスペインでコロンブスの西廻り航海計画を支援したトレードの大司教メンドゥーサも同姓であることから、この人物も同族かもしれない。(コロンブスとスペイン宮廷を結びつける一つのルートの可能性あり。)

フェリパと結婚したコロンブスは、1482年に西アフリカのギニア湾岸のエル・ミナ要塞を訪れているエル・ミナ要塞は、ポルトガルの奴隷取引と黄金取引の拠点であった。コロンブスはエル・ミナを度々訪れているが、それは彼自身が奴隷貿易に従事していたからだろう。フェリパのペレストレーロ家自体が、砂糖取引絡みで奴隷貿易に関わっていた疑いがある。砂糖のプランテーション栽培の労働力として奴隷が使われた。

ラス・カサス著『インディアス史』の記述は、コロンブスが奴隷貿易に携わっていたことを示唆しているまた、次のように、コロンブスが奴隷貿易に関わっていたことを裏付ける状況証拠が数多くある:

・コロンブスは、第一次航海に奴隷貿易で原住民との取引に使うガラス玉類を大量に持って行った。また、この航海で最初からためらいもなくインディオを捕縛した。

・コロンブスは、第二次航海の経費を奴隷貿易によって返済しようとした。

・コロンブスがスペインに入国した際に最初に立ち寄ったのが、スペインの奴隷貿易の拠点パロスだった。

・コロンブスの金庫番を務めたフィレンツェのベラルディ商会が奴隷貿易をしていた。

「彼ら [原住民] は武器を持っていませんし、それがどんな物かも知りません。私が彼らに剣を見せましたところ、刃の方を手にもって、知らないがために手を切ってしまったのであります。(中略)彼らは皆そろって背丈が高く、顔つきもよく、よい姿をしているのであります。(中略)彼らは利巧なよい使用人となるに違いありません。」(『航海日誌』1492年10月12日の項、ラス・カサス著、林屋永吉 訳、岩波文庫)

「(前略)両陛下の御命令さえあれば、私は彼らの全員を捕えてカスティリアにお送りすることもできれば、またこの島に全員をそのまま捕虜にしておくこともできるのであります。それは、五十名の部下で彼らをすべて服従させることができるからでありまして、彼らに何でもお望みのことをさせることができるのであります。」(『航海日誌』1492年10月14日の項、ラス・カサス著、林屋永吉 訳、岩波文庫)

中世以来、奴隷貿易はユダヤ人の伝統的職業であった。というのも、カトリック教会はキリスト教徒が奴隷貿易に従事することを禁じていたからだ。奴隷貿易が生む利益は莫大だった

コロンブスは黄金に強い関心を持っていた。『航海日誌』(文庫本で242ページ程)には、奴隷と黄金に関する記述が115回以上出てくるという。コロンブス研究者の多くは、コロンブスの宗教家としての側面ばかりを強調し、彼のあからさまな黄金欲については口をつぐんでいる。

「まことにエスパニョーラ島はすばらしい島であります。(中略)島を流れる幾つかの大きな河川は、良水をたたえ、そのほとんどが砂金を運んで参ります。(中略)しかもこの島にはたくさんの香料が取れ、大きな金鉱やその他の鉱山もあります。(中略)実際一人の水夫などは、帯紐一本で2.5カステリャノ(11.25グラム)の金を、また他の者はもっとつまらぬもので、より多くのものをかち得ているのであります。(中略)この島には測りきれないほどの金がありますが、この島をはじめその他の島々から、私は証拠のためにインディオを連れて参りました。」(第一次航海に際してのサンタンヘル宛書簡、林屋永吉 訳、岩波書店)

コロンブスの庶子フェルナンドが著したコロンブスの伝記では、コロンブスがリスボンに着いてからフェリパと結婚するまでの記述がわずか二行しかない:

「そこ(リスボン)のジェノヴァ人たちは、彼が何者であるかを知って厚遇した。そこで彼はリスボンに住み着き、結婚することになった」(『コロンブス提督伝』第五章、フェルナンド・コロン 著、吉井善作 訳、朝日新聞社)

フェルナンドは、コロンブスのポルトガル時代について何も知らなかった訳ではなく、知っていたが都合の悪い事実を書けなかったのだ。

1481年に即位したジョアン2世は、王権強化のために貴族を中心とした旧勢力を粛清していった。ジョアン即位後、ポルトガルのユダヤ人社会は二つに割れていったと見られる。前王アルフォンソ5世治下で繁栄を謳歌した旧勢力と、ジョアン2世につく新勢力である。

コロンブス一派は、西廻り航海計画をジョアンに提案したらしいが、結局その提案は受け容れられなかった。コロンブスは、宮廷内の旧勢力の方に属していたのかもしれない。ジョアン2世やその委員会は、西廻り航路の可能性も検討していたようだが、バルトロメウ・ディアスによる喜望峰(東廻りのインド航路)の発見(1488年頃)後は、西廻り航路に関心を失っていった。

コロンブスは1481年に長男ディエゴが生まれたが、1484年頃に妻フェリパが急逝する(死因は不明)。この時、何か異変があったらしく、コロンブスは息子ディエゴと共に逃げるようにリスボンを去っている。コロンブスが去った後に、フェリパの弟が処刑されている。また1488年に、ジョアン2世はコロンブスに逮捕・拘留しないからリスボンに戻るようにと手紙を送っているコロンブスのスペイン入国(1485年)は、ほとんど亡命のような形だったと見られる。本書著者の福井氏は、この時フェリパのペレストレーロ家自体が、ポルトガルの宮廷内の政治権力闘争で何か重大な事態に陥ったのではないかと考えている。一方、マダリアーガは、この時、コロンブスがポルトガルの国家機密(具体的には、トスカネリの地図の写し)を国外に持ち出したのではないかと見ている。

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