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【うらおもて歴史街道 No.3】 コロンブスはなぜアメリカ大陸に渡ったのか


〇 サン・ヴィセンテ岬沖海戦の謎

コロンブスの父親ドメニコ、ドメニコの父(コロンブスの父方の祖父)ジョヴァンニはともに毛織物業者であった。(カタルーニャおよび南仏は、当時の地中海世界における毛織物工業の中心地であったから、このこともコロンブス家のカタルーニャ移民説を補強する。)

ドメニコの一家は1470年にジェノヴァから、近くの町サヴォナに移り住んだ(後述)。

1473年、コロンブス(この時22歳位)が父ドメニコの負債に対する保証人となったことがサヴォナの公正証書に記録されており、ドメニコの商売が決して順調ではなかったことを示している。マダリアーガは、コロンブスが父親よりも信用があったのは、他に生計を支える手段を持っていたから、すなわち父とは違う職業に就いていたからであり、この頃コロンブスがすでに船乗りとして働いていてかなりの収入を得ていたと推定している。

この後、コロンブスが歴史の記録に現れるのは、1476年の「サン・ヴィセンテ岬沖の海戦」においてである。ジェノヴァの商船隊がイギリスおよびフランドルに向かう途上、ジブラルタル海峡を越えたポルトガルのサン・ヴィセンテ岬の近くでフランス・ポルトガル連合艦隊の攻撃を受けた。この時、ジェノヴァ側の船が3隻、フランス・ポルトガル側の船が4隻沈没したとされる。コロンブスはこの海戦で遭難し、泳いでポルトガルの岸に辿り着いたと伝えられる。

実はこの海戦でコロンブスがどちら側の船に乗っていたのかについて、対立する二つの見解がある。第一は、コロンブスがジェノヴァ船に乗っていたとするもので、コロンブス学の権威モリソンによる。第二は、コロンブスがフランス側の船に乗っていたとするもので、フランスのコロンブス学者ルケーヌによる。モリソンの見解が現在の学界の定説となっており、ルケーヌの見解は否定されている。

ジェノヴァ人コロンブスが自国の船を攻撃することなどあり得ないという理由から、ルケーヌの見解は無視されてきた。しかし、マダリアーガはコロンブスと同時代の記録者の証言を詳細に検討した結果、ルケーヌと同様の結論に至った。同時代の記録には、コロンブスがフランス船に乗っていたことを示唆する証言はあるが、ジェノヴァ船に乗っていたとする証言はないのである。

従来、この戦いはコロンブスの生涯において、些末な出来事と見なされてきた。しかし、本書著者の福井氏は、この時コロンブスがどちら側に乗船して戦っていたのかを明らかにすることこそ、コロンブスの謎を解く重要な鍵であると指摘している。なぜなら、もしルケーヌ説が正しいとすれば、ジェノヴァ人コロンブスがジェノヴァ船を攻撃するというのは異常な事態だからだ。

この海戦の当事者間の関係を簡略化した模式図を作成・掲載するので、ご覧いただきたい(下図2. 参照)。

図2. サン・ヴィセンテ岬沖海戦 関係図
図2. サン・ヴィセンテ岬沖海戦 関係図

アラゴン王家と南仏プロヴァンスのアンジュー家は、ナポリをめぐって歴史的に対立していた。この海戦当時のプロヴァンス伯レーネは、アラゴンに干渉するために、提督兼海賊のカズノヴ・クーロンを派遣しアラゴンの沿岸で盛んに略奪を働かせていた

カズノヴ・クーロンは、カタルーニャのカザノヴァ家やコロム一族と血縁関係にある人物であった(本稿p. 2参照)。(なお「クーロン」は「コロン」のフランス語読みと見られる。)

コロンブスの生地ジェノヴァは、ナポリをめぐるアラゴンとプロヴァンスの争いに巻き込まれ、その時々の力関係に応じて、アラゴン側につくかプロヴァンス側につくか立場を変えていた。ジェノヴァ内がアラゴン派とプロヴァンス派に分かれ、政争を繰り広げていた。

コロンブスの少年時代には、アンジュー家のプロヴァンス伯レーネがジェノヴァに対して影響力を持っていた。その頃、コロンブスの父ドメニコがジェノヴァ市の門番をしていた記録が残っており、ドメニコの一家はジェノヴァ内のプロヴァンス派(レーネ派)に属していたと見られる。しかし、このプロヴァンス派(レーネ派)のジェノヴァ支配は長くは続かず、程なくアラゴン派がジェノヴァを支配するようになる。その結果、ドメニコも仕事を変えることになる。

ドメニコは1470年にサヴォナに移り住むが、これはドメニコの一家がジェノヴァに居られなくなったか、あるいはサヴォナに活路を見出したということだろう。

そしてマダリアーガは、この頃すでにコロンブスが一人前の船乗りとしてレーネ傘下のカズノヴ・クーロンの私掠船団に乗り組んでいたと見ているのだ。つまり、コロンブスは海賊として(父ドメニコの借金を肩代わりできるほどの)稼ぎを得ていたということだ。もっとも、当時は通商と海賊が未分離であったので、商船が海賊(私掠)行為を働くことはよくあった

コロンブスは「アンジュ [レーネ] 側について戦闘に参加する以外の道を選ぶのは困難な状況にあった」とマダリアーガは記している。

後にコロンブスは、この時仕えたレーネの仇敵であるアラゴン王家に西廻り航海計画を売り込むことになる。コロンブスはジェノヴァ時代について多くを語っていないのだが、それはこのような都合の悪い過去があったからかもしれない。

なおプロヴァンス伯レーネは、アラゴンへの対抗上、アラゴンと対立していたカタルーニャの貴族メディナ・セリ公ドン・ルイス・デ・ラ・セルダを支援していた。(カタルーニャは自治意識が強く、歴史的にアラゴンに対する独立心が強かった。)後にコロンブスはスペインに入国(1485年)した際に、このメディナ・セリ公の元に身を寄せることになる。

アラゴン王フアン2世に対するカタルーニャの反乱に際して、マヨルカのコロム一族(本稿p. 2参照)が反乱軍に加担して、アラゴンの沿岸を盛んに荒らしまわっていたことが分かっている。

プロヴァンス伯は伝統的にユダヤ人に寛容な政策を採った。このため、プロヴァンスは中世ヨーロッパのユダヤ人迫害期にユダヤ人の避難場所となった。プロヴァンスでも13世紀後半から14世紀初頭にかけてユダヤ人迫害が起きたとはいえ、一時的なものであり、総体的には他の地域と比べてユダヤ人にとって安全な地域だった。カタルーニャ~プロヴァンス~北イタリアにかけてのユダヤ人は、ナポリをめぐるアラゴンとプロヴァンスの争いにおいて、大方はプロヴァンス(レーネ)側に味方したと見られる。

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