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【うらおもて歴史街道 No.3】 コロンブスはなぜアメリカ大陸に渡ったのか


〇 コロンブスとヘブライズム

コロンブスは、カトリックの聖者として描かれてきた。コロンブスがキリスト教(カトリック)聖フランシスコ会の在俗正会員であったことは間違いない。

しかし、つぶさに見ていくと、彼が心からキリスト教を信仰していたかどうかは疑わしい。彼が書き遺したものに見られる一貫した特徴は、「旧約」に対する異常な関心とイエス・キリストに対する無関心なのである。

コロンブスは、1492年の第一次航海のパロス港出発に先立ち、航海日誌の序文に次のように書いた。

「そこで、両陛下はこの一月に、そのすべての国土ならびに領土からユダヤ人を追放せられて後、私に対し、十分なる船隊をひきいて、インディアスの前記地方に赴くよう命ぜられた…」(『航海日誌』序文、ラス・カサス著、林屋永吉 訳、岩波文庫)

コロンブスが敬虔なカトリック教徒であったのならば、「両陛下はこの一月に、すべての国土をイスラム教徒からキリスト教徒の手に取り戻し…」のような表現をしても良さそうなものだ。然るに、なぜわざわざユダヤ人の追放に言及したのか。

コロンブスはモーゼに思い入れがあるらしく、航海日誌でモーゼに度々言及している。

「波の高くなることは自分にとって非常に必要なことだった。このような高波は、ユダヤ人がエジプトから脱出した時に、彼らを虜囚の身から脱せしめたモーゼの面前に起って以来、かつてなかったことだ。」(『航海日誌』1492年9月23日の項、ラス・カサス著、林屋永吉 訳、岩波文庫)

モーゼはエジプトで迫害されていたユダヤ人をエジプトから連れ出し、故郷の地に連れ戻した人物であった。コロンブスは自らをモーゼになぞらえていたのだ。

コロンブスが「福音書」(「新約聖書」に収められたイエス・キリストの現行録)に言及する時、ほとんど実質のないことが多い。議論の核心に触れる時には、決まって「旧約」に言及している

「私は疲れ果てて、うめき声を挙げながら寝込んでしまいました。すると非常に情け深い(神の)声が聞こえ、『(中略)神はモーゼのために、あるいはその召使ダビデのためになにをしたもうたか、汝が生まれて落ちてより、常に神は汝を守護したもうた。(中略)神はエジプトから追放されたイスラエルの民に、あるいはまた羊飼いからユダヤの王となったダビデのために、果してこれ以上のことをなしたもうたであろうか。(中略)汝、齢を経たりといえども、その齢未だ大事をなすを妨げず、神は偉大なる遺産を数多く持ちたもうたのである。アブラハムからイサックが生まれた時、アブラハムはすでに百歳を越え、サラもまた年若い女ではなかった…』と語りました」(カトリック両王に宛てた第四次航海の手紙、林屋永吉 訳、岩波書店)

ここで言及されている人物は、いずれも「旧約」中のユダヤ人にとって重要な存在であるが、イエス・キリストには一言も触れていない

16世紀中葉に『インディアス史』を著したラス・カサスは、コロンブスについて、「キリスト教のことについて言えば、彼は疑いもなく敬虔なカトリック信者であり…」と記している。

しかし、ラス・カサスがこれを記した当時、イベリア半島(スペイン・ポルトガル)には建前上カトリック教徒しか存在しなかった。ユダヤ教徒もイスラム教徒も追放された後なのだ。然るに、なぜラス・カサスはわざわざコロンブスが敬虔なカトリック教徒であることを強調しなければならなかったのか。

それは、当時のイベリア半島には、ユダヤ教から改宗したキリスト教徒(改宗ユダヤ人、または「新キリスト教徒」)が大勢いたからだ。この改宗ユダヤ人の中には、先祖伝来の信仰を棄てて心からキリスト教に帰依した者もいたが、一方で外面上はキリスト教徒を装いながら内面では密かにユダヤ教を信仰し続けた者(スペイン語の蔑称で「マラーノ」と呼ばれた)もいたのだ。

スペインにおいては、14世紀半ば頃から反ユダヤ主義の高まりがみられ、1391年セヴィリアで起きたユダヤ人大量虐殺を皮切りに、ユダヤ人迫害が全土に広がっていった。まず、この時期に多数の改宗ユダヤ人(マラーノ)が発生した。続いて1492年のユダヤ人追放令の際にも、大量の改宗ユダヤ人(マラーノ)が発生した。(なお、1391年のセヴィリアのユダヤ人虐殺事件を、コロンブスの祖先がジェノヴァに移住した契機と考える者もいる。)

このような偽キリスト教徒(隠れユダヤ教徒)を異端者として摘発・処罰するために、1480年スペインのセヴィリアを手始めに各地に異端審問所が設置され、異端と判定された者は財産を没収されたり焚刑(火あぶりによる死刑)に処されたりした。このため、改宗ユダヤ人(マラーノ)は異端審問や密告の恐怖に怯えながら生きることを強いられた。この異端審問の真の狙いは、改宗ユダヤ人の財産を没収することにあったとも言われる

コロンブスの活動を理解する上で、このような当時の改宗ユダヤ人の存在・情勢について、心に留めておく必要がある。

コロンブスがパロスを出港した1492年8月3日は、スペイン国内のユダヤ人追放の期日(1492年7月31日)の3日後であった。コロンブスは追放の混乱が冷めやらぬ82日の日に船員を乗船させ、一晩船の中で過ごし、その翌日に船出した。彼が8月2日から3日にかけて、一日をわざわざ船の中で過ごしたのはなぜなのか。

82日は、ユダヤ歴でエルサレムの神殿が二度も破壊された日(ユダヤ歴アブ月9日)に当たっていた。一度目は紀元前586年バビロニアによって、二度目は紀元前70年ローマによってである。ユダヤ人は、この日は仕事をせずに断食し、シナゴーグで祈ることになっている。

ユダヤ人は、どこへ行ってもユダヤ歴で年代計算し続けた。コロンブスは、ユダヤ歴にしたがって年代計算していたのだ。

エルサレムの神殿は、紀元前10世紀にソロモン王によって建立され(これが第一神殿)、紀元前586年にバビロニアによって破壊されるが、その後ユダヤ人が預言者を中心に再建する(これが第二神殿)。コロンブスは「第二神殿」という言い方をしているのだが、エルサレムの神殿を第一神殿と第二神殿に分けて考えるのは、中世ではユダヤ人しかいなかった

アメリカのユダヤ人作家サラ・レイヴォヴィチは、コロンブスがアメリカ大陸(実際はサン・サルバドル島)に初上陸した1492年10月12日が、ユダヤ歴で新年の祭りであるスッコート(仮庵祭)の7日目、ホシャナ・ラバの日に当たっていたことを指摘すると共に、その著作に1493年に出版されたトスカナ語版サンタンヘル宛書簡の挿絵を掲載した(下図1. 参照)。

トスカナ語版サンタンヘル宛書簡の挿絵
図1. トスカナ語版サンタンヘル宛書簡の挿絵
(『コロンブスはなぜアメリカ大陸に渡ったのか』より引用)

トスカナ語版サンタンヘル宛書簡とは、コロンブスが第一次航海の帰路リスボンに立ち寄って、この航海に多大な援助を行ったアラゴンの財務官ルイス・デ・サンタンヘル(本稿p. 1参照、コロンブスの西廻り航海計画を裁可するようイサベラ女王を翻意させた人物)に送った書簡が本として出版され、それがフィレンツェのトスカナ語に翻訳されたものである。ルイス・デ・サンタンヘルは、カタルーニャ出身の改宗ユダヤ人で、アラゴンの金庫番を務めた。スペインのインディアス事業の影の実行者とも言われる

ホシャナ・ラバの日に、ユダヤ人はルーラブと呼ばれるナツメヤシの葉を用いて豊作を祝った。上記挿絵を見ると、旗艦(コロンブスが乗船したサンタ・マリア号)に大きなナツメヤシの木が描かれているのだが、これはコロンブスがホシャナ・ラバの日に新大陸に上陸したことを暗示しているのではないだろうか。(もっとも、新大陸到達日がホシャナ・ラバの日に当たるように、コロンブスが航海日誌の記述を捏造した可能性はある。)サンタ・マリア号には、複数のユダヤ人が乗船していたことが判明している。

このトスカナ語版サンタンヘル宛書簡の出版は、トスカナ地方に居住するユダヤ人・改宗ユダヤ人に向けたものだったと考えられる。コロンブスの新大陸発見を最も喜んだのは、地中海一帯に居住するユダヤ人だったのだ。

コロンブスは、同じくアラゴンの出納官ガブリエル・サンチェス(この人物も改宗ユダヤ人)にも書簡で航海成功の報告をしているのだが、サンタンヘルとサンチェスの両名への報告はカトリック両王への報告よりも先であった

コロンブスは第一次航海に際してカトリックの司祭を一人も連れて行かなかった。これはカトリック教会の威信を広めるという航海の宣伝文句と矛盾している。一方で、コロンブスはこの航海にヘブライ語を話す通訳(ルイス・デ・トーレス)を連れて行った。このトーレスは出発の前日にユダヤ教からキリスト教に改宗したばかりであった。

マルコ・ポーロの『東方見聞録』には13世紀の中国にユダヤ人が存在していたことが記されており、コロンブスもそのことを知っていた。第一次航海でコロンブスはカタイ(中国)の王に捧げる親書を携えていた。つまり、コロンブスはカタイ(中国)でユダヤ人に会うことを想定して、ヘブライ語の通訳を連れて行ったのだ。

当時は印刷術が普及し始めたばかりの時代であり、今のように出版産業が発達していた訳ではない。筆写版聖書の値段は法外なものであり、一般のキリスト教徒が聖書を持つのは、稀な時代だった。然るに、コロンブスは「旧約」に精通していた。

コロンブスは、第四次航海に際してカトリック両王宛ての手紙の中で、古代ローマの歴史家ヨセフスの著書『ユダヤ古史』について言及している。『ユダヤ古史』は、学者でもない普通のキリスト教徒が持つことは考えられない大部の書であった。おそらく、コロンブスは、ユダヤ人の間で筆写されて出回っていた手書き本を目にしていたものと見られる。

また、コロンブスは、ユダヤ人学者アブラハム・ザクートの画期的発明だった『航海暦』が出版される前から、その筆写本を持っていた。

コロンブスは、「旧約」の預言者、特にイザヤ、エレミア、エゼキエルの三大預言者に対して異常とも言える関心を示している。

「インディアス事業の実行のために、余は、理性も数学も世界図も用いなかった。余はひたすらイザヤの言葉を実行したに過ぎない」(『コロンブス』増田義郎 著、岩波書店、1979年3

この三大預言者に共通するのは、熱烈なツィオン(またはシオン。エルサレムの神殿が立つ丘)に対する信仰と終末メシア思想である。国を失ったユダヤの民は、いつか再び王国を復興すると誓い、ツィオンに神殿が再建されることを夢見た。しかし、それはすぐに再建されるのではなく、そこに至るまで段階があった。美徳が滅び、神への信仰が失われて世界を支配する時、この世は終末を迎え、この時メシア(救世主)が現れて王国の再建が成就するというもの。

この終末メシア思想はキリスト教の誕生によって新たな意味を付与されたが、中世を通じてユダヤ教の正統思想の中にも、神秘思想の中にも受け継がれた思想だった。

コロンブスはカトリック両王に対する書簡の中で、終末がやってくるまでに世界に福音を広め、エルサレムを奪回せねばならぬので神は急ぎ、自分をその使者にされた、と主張した。福音を広めるというのは、カトリック両王への宣伝の可能性があるが、コロンブスの終末メシア思想とツィオン信仰は本物のように思われる。

この終末メシア思想とツィオン信仰と共に、コロンブスに見られる特徴の一つがその聖地奪回論である。彼はカトリック両王に対して、インディアス事業で得られる利益を元手にエルサレムを奪回することを提案している。だが、それはキリスト教十字軍的な意味で唱えているのではなく、シオニズムに由来するものだと本書著者の福井氏は指摘する。

コロンブスが育った時代は、スペインのユダヤ人/改宗ユダヤ人の間にカバラ的思潮が深く浸透していた。特にエルサレム奪回というカバラの主要テーマは、迫害期を生きる改宗ユダヤ人の夢として彼らの間に大きく膨らんでいた。福井氏は、コロンブスの聖地奪回論(シオニズム)も、このカバラの系譜の一つとみなすことが可能と指摘している。

コロンブスはフランシスコ会聖霊派の在俗正会員であったが、このスペインの聖霊派の実態は、キリスト教の仮面をかぶったユダヤ神秘思想というべきものであり、改宗ユダヤ人の新宗教と呼んでも差し支えないものであった。キリスト教に改宗するユダヤ人は、カバラの神秘思想に相通ずる聖霊派に惹かれるものが多かった。コロンブスが援助を受けた聖職者の多くが、フランシスコ会聖霊派の改宗ユダヤ人だった。

このように、コロンブスのユダヤ的なものに対する造詣は、カトリック教徒の船乗りとしては異常と思われるほどに深い

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