松田聖子と神田正輝の結婚は、聖子と裕次郎の愛人関係を覆い隠すための偽装工作だったのだろうか?
松田聖子が郷ひろみとの破局を発表した会見から、わずか一週間ほど。「今度生まれ変わって来たときは、絶対に一緒になろうねっ」と言った舌の根も乾かぬうちに、神田正輝との交際を発表。いかに「恋多き女」とは言え、いかにも不自然な早さだ。
この件に関して、郷ひろみは聖子が会見することさえ知らなかったと語り、「僕が生まれ変わって虫だったら、どうする気だろう?」というコメントを残している。(芸能記者)
(出典)松田聖子が郷ひろみから神田正輝に乗り換えた“本当の理由”〜昭和・平成「芸能暗黒史」その1(週刊実話)
https://weekly-jitsuwa.jp/archives/43162
もし郷と聖子の両者同意の上での破局なら、郷も会見に同席するなり、口裏を合わせるコメントを出すなりするだろうから、郷にとってこの破局会見は、まさに寝耳に水だったのだろう。
石原まき子(石原裕次郎夫人、元女優の北原三枝)の著書『裕さん、抱きしめたい』(青志社、2019年)によれば、この破局会見からわずか11日後の1985年2月3日、聖子と正輝は結婚の相談のため、ハワイの別荘に居る石原裕次郎を訪れている。
同書によれば、このときの裕次郎の「早いときは一日も早いほうがいい。ウジウジしていたら結婚なんかできないぞ。結婚しなさい」というひと言で聖子・正輝は結婚に踏みきったという。このことから、裕次郎が二人の結婚話に関与しているのは間違いない。実際には、このときに聖子・正輝の偽装結婚の詳細を取り決めたのであろう。
石原裕次郎は、1985年6月24日に挙行された聖子と正輝の結婚式の仲人も務めている。
聖子と正輝の結婚が、聖子と裕次郎の愛人関係を覆い隠すための工作だったとすると、何かその工作を急がねばならない事情があったのではないか?
それは裕次郎の病状の悪化だったのでは?
まき子夫人との間に子がいなかった裕次郎は、闘病生活を送る中で、己の死期が近いことを悟り、自分の子種をこの世に遺したいと強く願うようになったのではないだろうか?
(出典)石原裕次郎(ウィキペディア)
闘病
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%A3%95%E6%AC%A1%E9%83%8E
石原まき子夫人の前掲書によれば、彼女は1980年の夏(46歳か47歳の時)に子宮筋腫の手術を受けている。年齢を考慮しても、それ以後、まき子夫人は子供を産むことは難しい体だったのではないだろうか。
まき子夫人が子を宿すことが難しい以上、裕次郎は子をもうける相手として、若い愛人の聖子に目を向け、期待をかけたのではないだろうか?
そうして出来た子が神田沙也加だったのでは?
石原裕次郎にとって、松田聖子の「仮面の夫」役に、石原プロの子飼い俳優である神田正輝 を選ぶメリットは大きかったと思われる。
裕次郎が愛人の聖子と一緒に時間を過ごしたい時、正輝を同伴すれば良いからだ。裕次郎が子分の正輝を連れていてもおかしくはないし、正輝の夫人である聖子が同行していても怪しまれずに済む。(現に、裕次郎は1986年新春、石原軍団のハワイへの旅に聖子も連れて行っている。)
もし聖子の結婚相手が郷ひろみだったら、そうはいかないだろう。
だが、神田正輝を松田聖子の「仮面の夫」役に起用したことが、思いもかけない事件を誘発した可能性がある。それが岡田有希子の投身自殺だ。これについては、次稿(【あまのじゅく メモ No.4】岡田有希子 自殺の真相に迫る)にて述べてみたい。
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(参考文献)
『ガラスの橋を渡るとき 第1部』 青木栄司(著)、イースト・プレス(1995年)
『裕さん、抱きしめたい』石原まき子(著)、青志社、(2019年)
(公開日: 2023年12月24日)
(最終更新日:2024年4月20日)