岡田有希子は 5thシングル『Summer Beach』(1985年4月17日発売)の頃を境に、髪をバッサリと短く切っている。髪を切った時期は、同年3月下旬頃だったようだ。この髪型変更は、事務所側のイメチェン戦略の一環という文脈で語られる場合がある。だが、他方で、この「断髪」には彼女自身の思いも反映されていたのではないだろうか?
『月刊平凡』1985年6月号に掲載された記事によれば、髪を短くしたいというのは、ユッコ自身の希望だったという。彼女の断髪決行には、髪を切ることで叶わぬ辛い恋への未練を断ち切りたい、という思いが込められていたのではないだろうか?
(出典)彼女が髪を切ったわけ-4-
http://osb.sblo.jp/article/68231518.html
この仮説が正しいとすれば、彼女の失恋時期に対するヒントを与えてくれる。なぜなら時系列で並べれば、失恋⇒断髪、という順序になるはずで、その逆ではないからだ。
1985年3月20日(水)に(ハワイから)帰国した石原裕次郎が、松田聖子と神田正輝の結婚を容認する発言をしたらしいことが、翌3月21日付朝日新聞縮刷版のテレビ欄にて確認できた。発言の具体的内容は、残念ながら、確認できていない。
同年3月下旬の 岡田有希子の「断髪」は、この裕次郎発言とリンクしているのではないだろうか?
もし岡田有希子の交際相手が神田正輝だったとしたら、彼女はこの年2月の聖子・正輝の交際宣言にショックを受けたはずだ。だが、その時点ではまだ、正輝が本当に愛しているのは自分だという希望は捨てていなかったかもしれない。そんな彼女の希望を木っ端みじんに打ち砕いたのが、正輝と聖子の結婚に言及した裕次郎発言だったのではなかろうか?
そして、それがユッコの断髪断行へとつながったのでは?
1985年6月24日、松田聖子と神田正輝の結婚式(披露宴)において、岡田有希子は松田聖子に花束を贈呈する、という役目を仰せつかっている。その映像が残っている。
(出典)超貴重!有希子様.聖子さんに、花束贈呈
https://www.nicovideo.jp/watch/sm26997205
ユッコの意中の男性が神田正輝だったとしたら、これほど残酷な役回りはないだろう。彼女が花束を渡しに向かう壇上には、他ならぬその男が新郎として立っているのだから。しかも彼女は、新婦松田聖子の所属事務所サンミュージックの後輩として、事務所を代表して花束を贈呈する立場にあったから、彼女にはこの結婚式を欠席することは許されなかった。
現に、彼女はこの式の直前、二週間に及ぶスイスを巡る仕事を終え、式の前日に帰国するという強行軍をこなしている。この仕事の日程が、結婚式に間に合うように組まれたことは明白である。
ウィキペディア『岡田有希子』の項の記載によれば、この時の彼女の日程は次の通り:
「6月5日から1週間、高校の修学旅行で北海道に滞在する予定だったが、3日目の6月8日にヨーロッパへ出国。スイスのチューリッヒからアルプス山脈のユングフラウヨッホを経由してジュネーブまでを鉄道で廻り、プロモーションビデオや写真集、CMなどの撮影を行った。(中略)6月23日に帰国」
(出典)ウィキペディア日本語版 「岡田有希子」の項
ユッコの失恋相手が神田正輝だったとしたら、平然とその結婚式に参列するはずがない、という声があるようだが、その指摘は的外れだろう。式の司会者の徳光和夫アナがいみじくも述べているように、この時の彼女は、すでに「歌手松田聖子としての後継者になるべく」事務所から期待される立場にあった。彼女は、いわば「社命」で臨席していた訳だ。だから彼女には、この花束贈呈の役回りを拒否する選択肢は、事実上なかったのだ。
彼女は、文字通り「涙を呑んで」この結婚式に臨んだのではないだろうか。そしてこの時に抑え込んだ涙があふれ出たのが、この式の16日後に起きた「リハ中 泣き出し」事件だったのでは?
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