投稿記事

【うらおもて歴史街道 No.2】 ウォール街とボリシェヴィキ革命


○  1917年のアメリカ赤十字ロシア派遣団

1917年のアメリカ赤十字ロシア派遣団。その実態は、革命後のロシアの市場や鉱物資源の支配を目的としたウォール街資本家の一団であった。

著者のサットンによれば、第一次世界大戦中、アメリカ赤十字はウォール街の金融資本に財政を大きく依存し、実質的にウォール街に乗っ取られていたという。ウォール街は資金提供の見返りとして、アメリカ赤十字戦時委員会のポストを要求し、議長にJ. P. モルガン商会 (J. P. Morgan Company) のパートナーであったHenry P. Davison を就任させた。アメリカ赤十字の管理者には、アナコンダ銅鉱山会社 (Anaconda Copper Company) 社長のJohn D. Ryan、アメリカン・タバコ会社 (American Tobacco Company) 社長のGeorge W. Hill、ギャランティ・トラスト・カンパニー (Guaranty Trust Company) 副社長のGrayson M. P. Murphy、ロックフェラー財閥の広報専門家Ivy Leeなどが名を連ねた。ギャランティ・トラストは、モルガン財閥傘下の企業で、当時アメリカで最大のトラスト (企業合同) であった。

このような背景の中、1917年にロシアに送り込まれたアメリカ赤十字派遣団の構成員を図1に示す。派遣団の名目上の長は、シカゴ大学教授のDr. Frank Billings であったが、実質的な長はニューヨーク連邦準備銀行理事のWilliam Boyce Thompsonであった。派遣団の経費はThompsonが全額負担した。

Fig1

図1を見ると、派遣団メンバーの大半が、ニューヨーク金融街の資本家や弁護士および彼らの助手で占められていたことが分かる。このことは、同じく1917年にアメリカ赤十字がルーマニアに送った派遣団の人員構成と比較するとより明確になる (図2参照)。当時ルーマニアは、ロシアと共に連合国側として、ドイツ・オーストリアを中心とする同盟諸国と戦っていた。

Fig2

ルーマニア派遣団が医療活動という本来の目的に奉仕していたのに対して、ロシア派遣団はその活動の大半が政治的なものであった。ロシア派遣団は、1917年8月にロシアのペトログラードに入ったが、翌月には早くもDr. Billings以下の医療関係者が「政治的活動に嫌気が差し」、これに抗議してアメリカに帰国してしまっている。

(下のページ番号をクリックして、次のページへお進みください。)